イタリア喧騒が生んだ静かな暴力──セルジオ・マルティーノ再考

セルジオ・マルティーノ(Sergio Martino)は、イタリアン・スリラー/ジャッロ/ホラーの世界で独特の存在感を放ってきた監督として語られることが多い。名前を知っている人はもちろん、作品名に触れて惹かれた人でも「どこがそんなに強いのか」と聞かれたとき、すぐ言葉にできない魅力が彼の映画にはある。派手さだけで押し切らない緊張感、暴力や恐怖を“ショックのためのショック”にせず、生活の匂いがする空間のなかでじわじわと浸透させていく作りが、彼の作品を一種の作法として成立させているからだ。マルティーノを語ることは、単にジャンル史の補足ではなく、暴力表象と都市の感覚、そして娯楽映画に潜む倫理の揺らぎを眺めることにもなる。

マルティーノの興味深さは、恐怖や犯罪を扱いながらも、その感情の輪郭が極端に単純化されない点にある。ジャッロの系譜に連なる作品群は、しばしば“快楽としての残酷さ”や“錯乱の美学”として語られがちだが、彼の映画では残酷さがむき出しの快感に回収されず、人物の選択や環境の圧力と絡み合う。犯罪が起きること自体が目的化されるよりも、その前段階にある心理の歪み、欲望の偏り、あるいは身近な日常の不安定さがまず映し出される。つまり、恐怖は突然の出来事としてではなく、日々の摩擦や関係の亀裂として準備される。観客は「何が起きるか」を追うだけでなく、「なぜそうなってしまうのか」という不快な納得に近づいていく。その感触が、マルティーノの作品に独特の粘度を与えている。

さらに注目すべきなのは、彼の映画が時間感覚をどう設計しているかという点だ。テンポの速さだけで勝負するのではなく、緊張と弛緩の切り替えに“手触り”がある。場面転換は唐突であっても、心理の流れが置き去りにされることは少ない。観客は、出来事の連鎖を追いながらも、時に自分が登場人物の錯覚や恐れに引きずられていることに気づかされる。たとえば、視線が何かを見落としているように感じられる瞬間や、情報が遅れて届くことで脳内に不穏な補完が生まれる瞬間がある。これはミステリ的なサスペンス技法としても読めるが、単なる謎解きの快感に留まらない。情報の欠落が“理解の安全性”を奪うことで、恐怖が現実感を帯びてくるのだ。マルティーノは、観客の推理を促しながら同時に不信感を育てる。だからこそ、見終わった後の余韻が長引く。

また、マルティーノの作品を特徴づけるのは、暴力や危機の提示が「映像の快さ」へと一直線に接続されないことだ。もちろん、ジャンル的にはショックを与える見せ場がある。しかしそれは、観客の好奇心を刺激して終わりというより、恐怖を“環境の一部”として定着させる方向に働いている。刃物や傷、死の描写が強くても、それらが単にスペクタクルとして独立するのではなく、音や光、動線、室内の匂いさえ想像できそうな画面設計によって、現場が生々しく立ち上がる。結果として、暴力は寓意めいた記号ではなく、誰かの生活を破壊する出来事として回収される。こうした回収の仕方が、マルティーノの映画に“娯楽の顔”と“現実の顔”を同居させる。

その同居を成立させるうえで、人物造形の面白さも見逃せない。彼の映画における登場人物は、ときに極端に見える行動を取るにもかかわらず、感情の理由が画一的な悪意としては提示されない。むしろ、弱さ、自己正当化、劣等感、見栄、あるいは愛情のねじれといった、人間の曖昧な部分が暴力へ接続されていく。悪役/被害者という単純な二項対立に収まらず、加害へ傾くプロセスや、被害に巻き込まれる必然性が丁寧に組まれるため、観客は「誰が悪いか」を断罪する快感だけに逃げられない。断罪のための距離が縮まるぶん、恐怖は倫理的な重さを帯びる。マルティーノは、ジャンル映画の枠組みを使いながら、その枠組みの外側にある問い—私たちはどこまで同情し、どこから背を向けるのか—を画面の中に忍ばせている。

さらに重要なのは、彼の作家性が「イタリアという都市の感覚」に深く結びついている点だ。イタリアン・スリラーの魅力はしばしば、装飾的な美意識、光と影のドラマ性、そして都会の混沌にあるとされるが、マルティーノはその混沌を“美しい背景”として消費しない。街や室内の空気が人物の心理を増幅する装置として働き、逃げ場のなさ、関係の密度、他者の視線の圧力といったものが、犯罪の温度を上げる。都市は開放的であるように見えて、実は個人を閉じ込める。マルティーノはその逆説を映画のリズムやカメラの距離感にまで落としていく。だから彼の作品は、単に“暗い話”ではなく、観客が現実の都市生活に重ねられるような生々しさを持つ。

そして、こうした要素が噛み合うことで、マルティーノ映画は「恐怖映画でありながら、感覚的には犯罪の倫理を覗き込む作品」になっていく。残酷さがあるのに、単なるスプラッターの快楽では終わらない。サスペンスがあるのに、謎解きの知的快感だけでは満足しない。そこにあるのは、観客の視線が加害や暴力の側に引き寄せられる危険と、その危険を自覚しながらも見続けてしまう心理である。マルティーノの映画を“面白い”と感じる瞬間はあるが、それは同時に「なぜ面白いと感じるのか」を問いたくなる瞬間でもある。ジャンル映画の強度を、そのまま自己点検の装置に転用してしまうようなところがある。

セルジオ・マルティーノという監督を興味深いテーマとして取り上げるなら、「暴力が娯楽として成立するとき、観客の倫理感覚はどのように揺さぶられるのか」という問題が中心に据えられるべきだろう。彼の映画は、暴力を美化するためにあるのではなく、暴力が現れる条件—心理のねじれ、都市の圧、関係の歪み、そして“見たい”という欲望—を可視化することで、観客が持つ距離感を破ってくる。その結果、恐怖は一時的な感情ではなく、鑑賞後も思考の中に残り続ける。派手さよりも、残り方の不気味さで勝負する監督。マルティーノの魅力は、まさにその“静かな持続”に宿っている。

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