コラム

自然音楽家・谷本貴義が見せる「聴く人の内側を開く」作曲哲学

作曲家である谷本貴義について興味深いテーマとして、私は「彼が音の設計によって“聴き手の身体感覚”や“記憶の呼び出し方”に働きかけているのではないか」という点を取り上げたいと思います。音楽は耳で聴くものだと言われますが、実際には音は身体全体に触れ、呼吸のリズムや視線の置き場所、さらにはふとした瞬間に蘇る記憶の断片までを、作曲者の意図以上のやり方で触発してしまいます。そのような「聴くことの身体性」を強く意識するような作風があると感じられるのが、谷本貴義という存在です。もちろん、本人の公式な発言や制作ノートがどの程度明文化されているかによって語り方は変わりますが、少なくとも作品の聴こえ方からは、音を単なる“情報”ではなく“体験の場”として組み立てる姿勢がにじみ出ているように思えます。

まず注目したいのは、音の時間の扱い方です。谷本貴義の音楽を聴いていると、「展開」や「派手さ」よりも、むしろ音が持続することによって生まれる質感、そして音が立ち上がりから消えていくまでの減衰や余韻が、ひとつの中心に据えられているように感じられます。メロディが前に押し出すというより、響きが前景と奥行きを入れ替えながら、聴き手の注意を少しずつ誘導していくタイプの構成があるのではないでしょうか。たとえば、ある音が鳴り始めた直後よりも、次の音が来るまでの“間”のほうが印象に残ることがあります。そうした間は、単に休符のように空白であると同時に、聴き手の脳内で音が続いてしまうための余白にもなっています。結果として、聴き手は音を聴くというより、自分の内部に音を立ち上げ続ける作業に巻き込まれることになります。音楽が受け手に委ねる領域が多いほど、人は「聴いた」というより「思い出した」ような感覚を持つことがあり、谷本貴義の音作りはその種の体験に近い手触りを与えているように思えます。

次に、音色の扱い方にも同様の特徴が見えてきます。音色とは、楽器や声の種類といった外形だけでなく、同じ高さ・同じ強さでも変化する“質のニュアンス”です。谷本貴義の作品では、音色の変化がしばしばメロディの変化以上に意味を持っているように聴こえる場面があります。つまり、何かが「変わった」というより「同じように聴こえているのに、少しだけ世界の見え方が変わった」という感覚が生まれる。これは、聴覚が微細な差異を拾い続ける能力に働きかける構成でもあります。こうした構成が成立すると、聴き手は曲の進行を“物語”として追うだけでなく、“環境”の変化として捉え始めます。たとえば、光の当たり方が変わった室内のように、音の密度や残響感、周波数の重心の移動が、体験全体の温度をじわじわと変えていく。谷本貴義は、そうした「音の環境設計」を通じて、聴く人の注意の向け先そのものを組み立てているのかもしれません。

さらに重要なのは、彼の音楽が「聴き手の内側を開く」方向に働いている可能性です。音楽が人の内面に触れる方法は、感情を直接ラベル付けするやり方だけではありません。むしろ、言葉にできない感覚を保持する余地を作り、その余地に聴き手の経験や記憶が自然に入り込めるようにすることでも、内面への接続は起こります。谷本貴義の音楽は、そうした“入り口”を用意するタイプの作品として捉えられるのではないでしょうか。メロディが懐かしさを喚起するだけではなく、和声進行が感情の方向を指し示すだけでもなく、音が配置され、響きが畳まれていくプロセスが、聴き手の心の中にある「まだ言語化されていない感情」や「説明できない落ち着かなさ」を、うまく扱える状態に整えていく。聴き終わったあとに、理由は説明できないのに身体の緊張がほどける、あるいは逆に視界がクリアになる、そういう変化が起こるなら、それは音楽が直接的な意味ではなく、“受け取る側のチューニング”に働きかけた証拠だと言えます。

ここで見逃せないのが、彼の音楽における「反復」と「変形」の関係です。反復は催眠的である一方、単純に同じものを繰り返しているだけでは退屈になりがちです。しかし、谷本貴義の作り方が仮に反復を使いながらも、微細な変形によって飽きさせない設計をしているなら、そこには“集中の持続”を可能にする工夫があります。たとえば、同じモチーフが再登場しても、テンポが変わるわけではないのに体感が変わる、響きの比重がわずかに移動して別の意味に感じられる、あるいはリズムの輪郭が前より柔らかく聞こえるといった具合です。こうした変形は、聴き手に「同じものを聴いているのに、違うものを聴いている」という二重の感覚を与えます。二重性が生まれると、聴き手は受動的に流されるのではなく、自分が違いを確かめる主体になっていきます。結果として、音楽の時間は“ただ過ぎるもの”から“確認しながら生きるもの”になります。

また、谷本貴義の音楽には、現代的な感受性とも響き合う「現実の質感」への近さがあるようにも思えます。音楽が抽象的であっても、聴き手は日常の手触りを無意識に持ち込みます。街のざわめき、部屋の残響、雨の粒が落ちる速度、夜の静けさの密度。そうした現実の質感は、音楽の内部に“擬似環境”として再現されることがあります。谷本貴義の作品がそうした感覚に近い場合、聴き手は音楽を鑑賞するという行為の中で、日常とは別の場所に立ちながらも、どこか日常に接続された感覚を得られます。つまり「完全な異世界」ではなく、「現実の延長として成立する別の秩序」が立ち上がる。これは、音楽が持つ魅力のひとつでもあります。

結局のところ、谷本貴義をめぐる興味深いテーマは、彼の音楽が“何を伝えるか”というより、“どう聴かせるか/どう聴かれてしまうか”というプロセスにあるのではないでしょうか。音は、聴く側の世界観や記憶や身体状態と接続して初めて意味を持ちます。谷本貴義のように、その接続点を丁寧に設計する作曲家の作品は、聴き手にとって一度だけの体験では終わらず、再聴のたびに別の層が立ち上がってくる可能性があります。聴くたびに「さっきは気づかなかった響きの輪郭」が見つかるなら、それは音楽が、聴き手の側にも成長の余地を残している証拠です。

もしあなたが谷本貴義の音楽にまだ触れていないなら、ぜひ最初は“理解しようとしすぎない”で聴いてみてほしいと思います。作曲の意図や技法を追いかける前に、音色の温度や時間の伸び縮み、あるいは間が作る呼吸の変化に注意を向けると、作品の輪郭が立ち上がってきます。そうして聴いたあとで、次に「どこが反復され、どこが変形され、どんな場所で感情が言語化されずに残るのか」を探すと、谷本貴義の音楽が持つ“聴くことの深さ”を、より具体的に感じられるはずです。作曲家が鳴らした音は同じでも、聴く人がその日の自分の状態でどんな内側を持ち込むかによって、音楽の意味は変わります。谷本貴義の作品は、その変化を楽しめるタイプの音楽であり、だからこそ興味深いと感じられるのだと思います。