コラム

カプコン『ファイティングジャム』が語る“乱戦の美学”

カプコンの『ファイティングジャム』は、格闘ゲームの枠組みにありながら、どこか奇妙で魅力的な温度感をまとったタイトルです。通常の格闘ゲームが「読み合い」や「個別の対人技術」を軸に勝敗を詰めていくのに対し、本作は“乱戦”そのものを前提にした設計思想が強く感じられます。そのため、同じキャラクターを使っていても勝ち筋は単純な上達だけでは決まらず、状況判断、タイミング、相手同士の干渉まで含めたゲーム全体のダイナミクスが、プレイ感の中心にあります。格闘ゲームが「1対1の技術競技」だとするなら、『ファイティングジャム』はその定義をわざと曖昧にして、集団戦のような高揚感を格闘の文法へ接続している――そんな趣がある作品です。

本作を興味深いものとして眺める観点の一つは、「操作の上手さ」と「環境の使い方」の比重がしばしば入れ替わる点です。たとえば、通常の1on1では、相手の動きに合わせて自分の間合いを調整し、攻守のリズムを固定していくことが重要になります。しかし乱戦型のゲームでは、同じ攻撃が別の誰かに当たることもあれば、相手の回避やカウンターが第三者の行動と絡み合って、予想していた展開が簡単に崩れます。結果として、攻撃が“当たるかどうか”だけでなく、“当たった後に自分が何を得るか”という価値の計算が必要になります。読みが当たっているのに勝てない、あるいは読みがズレているのに状況が味方する、そういう不確実性が常に存在するため、プレイヤーは技術だけでなく、混沌を見切る能力を求められるのです。

また、乱戦が前提になると、キャラクター差やプレイスタイルの意味も変わってきます。強いキャラクターを「コンボが安定する」「一撃が重い」といった単純な指標で測るよりも、「乱戦での立ち回りが破綻しにくいか」「接近や離脱を素早く作れるか」「相手の攻撃が重なった瞬間に対応できるか」といった、場の流れに対する適応力のほうが影響を持ちやすくなります。つまり、本作ではキャラクター性能の差が“直接の火力”よりも、“混戦時に生き残れる設計”として現れやすい。プレイヤーが勝ちに近づくためには、ダメージレースを追うだけでなく、局面をどう分解して認識するか、誰がいつ前に出て、誰が今がっちり構えられているのかを捉えることが重要になります。これは言い換えると、格闘ゲームの勝敗が、個人の反射神経だけでなく、状況を理解する認知ゲームとして成立している面があるということです。

さらに『ファイティングジャム』の面白さは、「攻めが攻め続けられるとは限らない」ことにもあります。乱戦では、追撃中でも別の相手が割り込んで流れが変わるため、攻め手の都合だけで連鎖が固定されにくい。その一方で、相手同士が干渉し合う瞬間には、通常なら狙えない“隙の生まれ方”が発生します。誰かがダメージを受けて硬直しているところに、別の相手が不用意に踏み込んで重なり、そこを第三者が回収していく――そんな連鎖が起きると、プレイヤーは偶然に見える勝ちを「自分のタイミングで起こした」と感じやすくなります。偶然性の強いゲームに見えて、実はその偶然を再現可能にするには、観察と判断が不可欠です。ここに、乱戦ゲーム特有の“自分の努力が結果に変換される感覚”があります。

そして忘れてはならないのが、こうした乱戦型の格闘は、対戦相手の存在がより強く“ゲームの素材”になる点です。対戦ゲームは基本的に相手の行動を前提に成立しますが、本作はその前提がさらに拡張されています。相手は単にこちらの計画を妨害する存在ではなく、こちらの攻防を成立させるための「相手同士の干渉」を生み出す装置にもなります。だからこそ、同じプレイヤー同士でも、対戦相手の癖や強みの方向性によって展開はかなり変わります。自分が上手いだけでは勝ちにくく、相手の動きが作る“相互作用”をどれだけ読み切って利用できるかが結果として表れます。これが『ファイティングジャム』を「対人ゲームとしての奥行き」へ押し広げる要素になっていると感じます。

総じて『ファイティングジャム』が興味深いのは、格闘ゲームの面白さを保ちつつ、乱戦という揺らぎをその中心に据えているからです。技術の積み上げが無意味になるのではなく、技術が活きるための条件が増える。読み合いが単純な一対一の関係で閉じず、相互干渉という“現場の複雑さ”を含む形へ進化している。だからこそ、勝ち負けの瞬間に見える光景が毎回少しずつ違い、同じ戦いが二度と完全には再現されません。乱戦がもたらす混沌は単なるストレスではなく、プレイヤーに「状況を理解して、混沌を制御する」快感を与える。その意味で本作は、格闘ゲームが持つ競技性と、混戦ゲームが持つ高揚感の間に、独自の説得力をつくり出した作品だと言えるでしょう。