コラム

『羅幹』の「暴力の合理性」をめぐる恐ろしい構造

『羅幹(らかん)』をめぐって特に興味深いのは、ただ単に残酷な出来事を描く物語というより、暴力が「目的のための手段」として組み立てられていく、その合理化のメカニズムに目が向けられている点です。多くの作品が暴力を“衝動”や“悪意”として受け取りやすいのに対し、『羅幹』では、暴力がどのような論理や制度のもとで正当化され、当事者たちの言葉や沈黙、慣習によって現実として成立していくのかが、じわじわと立ち上がってきます。ここでの恐ろしさは、誰か一人の怪物性だけで完結せず、むしろ周囲の人間がその暴力を「理解できるもの」へと変換していく過程にあります。

まず注目したいのは、暴力が単なる破壊ではなく、秩序を維持する装置として働いているように見えることです。物語の中で暴力は、混乱を収束させるため、あるいは危険を排除するためといった形で語られます。すると暴力は、個人的な憎しみや怒りの発散ではなく、組織の方針、社会の都合、将来への見通しのような“もっともらしい理由”に接続されていきます。こうした接続が進むほど、暴力を止める側は「感情的な抵抗」として扱われやすくなり、暴力を行う側は「必要な措置」として正当な位置に押し上げられます。結果として、加害は道徳の問題ではなく手続きの問題へと置き換わっていき、罪の輪郭が薄れていくのです。

さらに『羅幹』が深いのは、その合理化が言葉のレトリックにとどまらず、時間の流れや日常の反復と結びついて描かれているところです。暴力が一度の事件として完結しないとき、人は「もう戻れない」という事実だけでなく、「慣れてしまう」という性格の変化を経験します。物語の中でも、同じことが繰り返されることで倫理の基準がずれていく様子が感じられます。最初は耐えがたい出来事だったはずのものが、徐々に“普通”の側に寄っていく。そうして当事者たちは、恐怖を沈めるために理由を探し、理由が見つかるほど抵抗が鈍り、鈍った抵抗はさらに理由を強化してしまいます。ここには、暴力が人間の心理や判断をも改変する、という冷たい現実が表れているのです。

また、視点の置き方にも注目できます。『羅幹』では、加害者と被害者をあらかじめ単純に分類するだけで終わらせないような気配があります。もちろん、暴力が肯定されるわけではありませんが、登場人物それぞれの立場には、納得しきれないまま受け入れてしまう側面や、逃げられない制約の影が落ちています。だからこそ読後に残るのは、「悪い人が悪いことをした」という結論の手触りではなく、「自分の周りに同じ仕組みができたら、どこまで自分は止められるのか」という問いです。暴力の構造は遠い場所にだけ存在するのではなく、境界線を引く仕事をする言葉や、沈黙を許す空気や、「仕方がない」を積み重ねる習慣の中に潜んでいます。

この観点から見ると、『羅幹』が提示しているテーマは、暴力の“正しさ”を選別する物語ではなく、正しさがどのように作られていくかの物語に近いと言えます。とくに危険なのは、正しさがしばしば結果の合理性、つまり「目的が達成されるなら手段は問われない」という形で現れる点です。被害を数値化し、恐怖を管理し、危険を分類することで、加害は「悪」ではなく「処理」へと姿を変えます。しかし処理という言葉の背後には、取り返しのつかない何かが必ず失われている。『羅幹』は、その失われ方の輪郭を曖昧にしないように描こうとするため、読者の胸に痛みを残します。

さらに深めて考えると、物語が示しているのは、暴力の連鎖が個人の性格だけでは止まらない、という認識です。制度や慣習は、善意が入り込む余地を狭めます。誰かが止めようとしても、「今は例外にできない」「前例がない」「遅れれば被害が増える」といった論理で手続きが組み替えられる。すると善意は“役に立たないもの”として格下げされ、結局、最も弱いところにしわ寄せが行く。こうした構造は、現実の世界でも似た顔をしています。だからこそ『羅幹』の題材は、過去の物語として消費されにくいのです。読者は、物語の出来事を理解しながら同時に、自分の理解がどこかで加害を手伝う形になっていないかを点検されます。

そして最後に残るのは、「合理化された暴力は、感情の問題に見えて、実際には判断の問題である」ということです。憎しみや恐怖は誰にでも起こりうる反応ですが、合理化とは、それらの反応を“判断の言語”に翻訳し、実行に結びつけるプロセスです。『羅幹』を読むことで、読者はその翻訳の段階に意識を向けるようになります。暴力が始まる瞬間ではなく、暴力が“当然になってしまう瞬間”。その手前で、誰が何を見落としたのか。あるいは、見て見ぬふりをしたのか。そうした小さな分岐点が積み重なって、取り返しのつかない結果へと向かっていく――その恐ろしさを、『羅幹』は物語の内部から静かに照らし出しているように感じられます。

『羅幹』は、派手な悪意の暴発だけを描く作品ではありません。むしろ、暴力が“説明可能”になっていく過程、説明が与えられるほど抵抗が薄まっていく過程、そしてそれが社会の空気や制度の手触りとして固定化されていく過程を、読み手の感覚に長く残る形で問い直してくる作品です。そのため読後、単に怖いという感情のまま終わらず、「合理性の名で奪われるものは何か」「止めるとは具体的にどの判断を選ぶことなのか」という問いが、いつまでも頭の奥に居座ります。