夜の“虚”を歩く――瀧川虚至が問いかけるもの

瀧川虚至という名前を見たとき、まず目に入るのは、その言葉の響きがどこか「空っぽ」や「揺らぎ」を連想させる点かもしれません。実在の人物や作品に対して、名前の印象だけで深読みしてしまうのは危険ですが、少なくともこの“虚”という文字が含まれる以上、そこには何かしらのテーマ性が存在しているように感じられます。そして、瀧川虚至をめぐる興味深いテーマとして私は、「虚(うつろ)を通じて、現実の輪郭を立ち上げる創作と思考のあり方」を取り上げたいと思います。ここで言う“虚”は単なる欠如ではなく、むしろ現実が見えにくくなった状態から、あえて輪郭の作り方そのものを問い直すための装置として働くものです。

一般に「虚」と聞くと、空虚・無意味・実体のないものといった方向に理解が寄りがちです。しかし、文学や思想の文脈において“虚”は、しばしば逆の働きをします。つまり、虚があるからこそ、現実が現実として立ち上がるのです。具体的には、虚が“あるもの”を否定するのではなく、“あるものがどう見えているか”を揺さぶります。たとえば、私たちが日常で信じている因果関係や、確かなはずの記憶、言葉に頼って成立する社会的合意は、実際にはつねに補正や解釈を含んでいます。瀧川虚至の世界が面白いのは、その補正そのものを見せてしまう、あるいは補正が必要になる条件を露出させるところにあります。読者や観る側は、出来事を追っているようでいて、いつのまにか「出来事が意味を持つための条件」を辿ることになります。

このとき重要になるのが、「見えるもの/見えないもの」の関係です。“虚”が強くなるほど、視界は鮮明になるどころか、むしろぼやけていく場合があります。ですが、そのぼやけは単なる不明瞭さではありません。ぼやけの背後に、視線がどこを重要視しているか、あるいはどこを意識的・無意識的に捨てているかが現れてくるからです。虚至の関心が、そうした視線の癖や、認識の手つきに向けられているとすれば、作品や思考は私たちに「あなたは何を見ているのか」と問い返します。現実を描くのではなく、現実を描く“仕組み”を描いている、という見方が可能です。つまり、そこにはリアリズムの否定ではなく、リアリズムの成立条件の再検討があります。

さらに、“虚”がテーマとして機能するとき、時間の感覚も独特になります。虚は静止していません。むしろ、いつも動きながら実体をすり抜けていきます。記憶はたとえば、時間が経つほど正確さを失うのではなく、記憶が「正確である必要」によって形を変えることがあります。感情も同様で、ある出来事が起きた瞬間の感情が、そのまま持続することは稀です。私たちは後から意味を付け足してしまう。後から物語を組み替えてしまう。そのとき時間は、直線ではなく、配置換えの装置になります。瀧川虚至が虚を扱うなら、時間は“流れるもの”ではなく、“編集されるもの”として立ち上がるはずです。読後感や鑑賞の手触りが「終わったのに終わっていない」あるいは「つながっているのに確定できない」という揺れを残す場合、それは虚が単なる雰囲気ではなく、時間の作動原理として働いているサインかもしれません。

また、虚は他者との関係にも影響します。人は他者の存在を理解しているつもりで、実は他者の“外側”にある情報から推測を組み立てています。相手の沈黙、言い間違い、間の取り方、表情の変化――それらはすべて“解釈の材料”であり、材料は虚を含みます。なぜなら、材料だけでは意味は完成しないからです。瀧川虚至のテーマがこの方向に伸びるとしたら、作品の核心は対話や交流そのものではなく、対話が成立する直前の「埋められていない部分」にあるでしょう。言葉が足りないのではなく、言葉が足りないように見えてしまう構造が問われる。相手が理解できないのではなく、理解が成立する条件が揺らいでいる。そうした視点は、私たち自身が他者に対してしばしば抱く「わかった気」の危うさを浮かび上がらせます。

ここで一つ押さえておきたいのは、虚が「逃避」や「現実の拒否」と同義ではないという点です。虚至の“虚”が仮に現実から目を背けるための装飾であるなら、そこには消費されるだけの面白さしか残りません。しかし、虚が現実の輪郭を研ぎ澄ますための媒体であるなら、むしろ虚は現実へのコミットメントの別名になります。つまり、現実が見えないことに耐える力、見えない部分を見えないまま扱う倫理、そして「わからない」を放置しない姿勢が問われます。虚があるからこそ、言い切れないことの責任を引き受ける。そのような態度が作品の底にあるとすれば、瀧川虚至の魅力は一時の謎解きや感傷を超えて、受け手の思考態度にまで影響しうるものになります。

さらに、このテーマをより面白くするのは、虚がしばしば“美しさ”として立ち上がることです。実体がないのに、美しい。輪郭が曖昧なのに、記憶に残る。そうした経験は、私たちが日常で何度もしてきたはずです。夜の光が壁に溶ける瞬間、誰かの声が遠くなる瞬間、空白ができることで逆に関係が浮かび上がる瞬間。虚はそうした瞬間に似ています。だからこそ虚至のテーマは、抽象的な哲学にとどまらず、感覚のレベルで読者を捉えます。言葉にされた瞬間に現実が確定してしまうのではなく、言葉にできないものがむしろ中心に座る。そういう構図が生まれるとき、虚は理念ではなく体験になります。

では、この問いは最終的にどこへ向かうのでしょうか。私は、瀧川虚至の“虚”が、私たちに対して「現実とは何か」を教えるというより、「現実として成立しているものは、いつもどこかで仮置きされている」という事実を突きつけるのだと考えます。確定しないものがあること、確定できないことがあること、その状態を否定せずに生きること。さらに言えば、確定しないことで傷つくこともあるけれど、それでもなお確定という暴力に向かう前に立ち止まること。その立ち止まりこそが、虚が与える倫理的な手触りだと思います。

こうして見ると、「瀧川虚至」という名前が含む“虚”は、ただの記号ではありません。現実を描くために必要な輪郭の作り方、他者を理解するための推測の癖、時間が意味を変えていく編集の力、言葉が確定へ向かう前の余白――それらを同時に照らすための中心語になっている可能性があります。虚の周辺に立ったとき、私たちは世界を見ているつもりで、実は世界の見え方を作っていることに気づく。逆に、虚があることで世界が見え直される。瀧川虚至のテーマがこの往復の回路を持っているなら、その作品や思考は、読んだ後に終わりません。むしろ、日常の中で「いま自分はどこを埋めてしまっているのか」を探し始めるようになるはずです。虚に気づくことは、現実に気づくことでもあるのです。

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