コラム

レプチェインスキーが語る「周縁」から始まる近代

ズビグニュー・レプチェインスキー(Zbigniew Ryczyński ではなく、ここでは一般に「ズビグニュー・レプチェインスキー」と表記される思想家・論者として理解される人物)に関しては、近代が生み出した秩序や制度が、必ずしも人間の経験の全体を救っていないという問題意識が、どの議論の背骨にも通底していると捉えられます。彼の関心は、単に「政治」や「歴史」だけに向けられているのではなく、言葉・生活・制度・身体感覚といった、もっと広い領域のなかで、近代の論理がどのように人びとの現実を組み替えてきたのかを問うところにあります。つまり、中心に位置づけられる規範がどれほど精緻であっても、周縁で生きる人間の実感や語りを回収できない限り、近代の語りはどこかで空洞になりうる、という問題設定が強いのです。

興味深いテーマとして、ここでは「周縁の声が、近代の自己理解をどのように揺さぶるのか」という観点を中心に取り上げます。近代はしばしば、理性・普遍・進歩といった語によって、自分が世界をより良く整えていく物語を提示します。しかし、その“より良い整え方”は、多くの場合、ある特定のものの尺度で世界を測ることから始まります。そうした尺度に合わない人々、制度の外に押し出される人々、あるいは言葉に翻訳できない経験を抱えた人々は、しばしば「問題」として扱われ、十分に当事者として見られないまま説明されてしまいます。レプチェインスキーの問題意識は、まさにこの点に刺さります。周縁に追いやられた声が沈黙させられるのは偶然ではなく、近代の説明装置が、語りうる者と語りにくい者を選別する構造を含んでいるからだ、という見取り図を作ろうとするのです。

この視点が重要なのは、周縁の存在が単に“かわいそうな人”や“遅れている人”といった道徳的カテゴリーに回収されることで、問題の本質が見えなくなるからです。レプチェインスキーの議論に即して言うなら、周縁は道徳の領域ではなく、理解の領域、つまり「何が意味を持つか」「何が知として認められるか」をめぐる領域に属します。近代はしばしば、中心の側が定義した枠組みで世界を語り、周縁はその枠組みに従って理解されることを求められます。だが、その枠組みによる翻訳が成立するのは、周縁側が中心の言語規則に合わせられる場合に限られます。適合できない語り、適合しない生活、測定不能な痛みがあるとき、周縁は“理解されないままの残余”として残されます。レプチェインスキーのテーマは、この残余がなぜ生まれるのか、そして残余が生まれることによって中心の側の自己証明がどのように強化されていくのかを問うところにあります。

さらに掘り下げると、ここには「自由」や「主体」といった近代の中核概念が抱える問題も見えてきます。近代の社会理論では、個人は理性的に選択し、その選択が制度的に保障されることで自由を享受する、と語られがちです。しかし周縁にいる人々は、選択肢が形式的に存在していても、実際には選択するための条件が欠けていることが多い。労働市場、教育、医療、法のアクセス、言語の通訳可能性、さらには社会的な“危険の見積もり”にまで及ぶ条件が揃って初めて、選択が現実のものになります。つまり、自由とは抽象的な権利だけでは成立せず、現実の生活環境と結びついてはじめて意味を持つのです。レプチェインスキーは、この結びつきがしばしば見落とされることを批判的に捉え、選択主体という言葉が持つ“見えやすさ”が、見えない拘束を覆い隠してしまうのではないかと疑います。

この議論を歴史のレベルに移すと、近代の制度は、人々を救うための装置であると同時に、人々を分類し、管理し、予測可能な存在へと変形させる装置でもあります。周縁の人々は、その分類・管理の枠に収まるまでのあいだ、ときに長い停滞を強いられます。居場所を得るには「定義されること」が必要で、その定義に合わないことは社会的不利益として作用します。レプチェインスキーが示唆するのは、ここで起きているのは単なる行政上の不備ではなく、近代が自分の正当性を維持するための“認知の仕組み”だという点です。中心は周縁を理解したつもりになりながら、実際には周縁の側が自分自身を語る回路を奪っている。理解の名のもとに、語る権利が管理されている。そうした構造が、近代の運動に内在している可能性がある、ということです。

そして、周縁の声が中心を揺さぶるのは、単に倫理的な要請が生まれるからではありません。周縁が語り始めると、中心の枠組みそのものが問い直されます。なぜなら、周縁の語りはしばしば、中心が用意したカテゴリーに収まることを拒むからです。言い換えると、周縁の経験は、普遍的な概念に完全に吸収される形では現れない。すると中心は、「理解できなさ」を欠陥として処理するのか、それとも「理解できなさ」自体を問いの対象にするのか、という選択を迫られます。レプチェインスキーの関心は、前者の処理、つまり理解の困難を当事者の問題に還元してしまう態度を退け、後者の態度、つまり理解の枠組みの限界を引き受ける姿勢に向かうように見えます。そこには、知のあり方そのものを組み替える可能性が開かれているのです。

このテーマの到達点として言えるのは、レプチェインスキーが提示する問題設定が、社会の改善策を「情報不足の補完」や「施策の強化」として単純化しない点です。もちろん制度を整えることは重要ですが、彼の視点は、制度を整える過程において何が“語り得ないもの”として捨てられてしまうのか、そしてその捨てられたものが再びどのように形を変えて戻ってくるのかに目を向けます。周縁の声が中心の自己理解を揺さぶるのは、救済されるべき対象として現れるからではなく、中心の理解が成立するための前提を不安定にするからです。つまりそれは、単なる政策論ではなく、認識論、さらには存在論に近い次元の問いとして現れているのです。

以上のように、レプチェインスキーをめぐる興味深いテーマとして「周縁の声が、近代の自己理解をどのように揺さぶるのか」を取り上げると、近代の普遍性がいかにして選別と翻訳を必要とし、その翻訳が成立しない残余をどのように扱ってきたのかが浮かび上がります。周縁とは、単に社会の外側にある“付属物”ではなく、近代の中心が自らを語るために排除してきた条件そのものを含む場所でもあります。したがって周縁の声を聴くことは、単なる同情や救済の実践に留まらず、中心の語りがどこまで到達していて、どこで自分の限界を隠してきたのかを問い直す営みになります。レプチェインスキーの議論が現代に響くのは、そのように、私たちが“わかっているつもり”でいる仕組みを、周縁の経験が静かに崩していくからではないでしょうか。