ストローソン(P. F. Strawson)は、責任や非難(非難可能性)といった問いを、法廷や道徳教育の場で行われる日常的な実践の中に位置づけ、そこに見えてくる人間理解の構造を掘り当てようとした哲学者として知られています。とりわけ興味深いのは、私たちが誰かを「責める」「責めない」といった判断を下す際に、どんな前提を暗黙に採用しているのか、そしてその前提が因果や決定論の議論とどのように結びついているのか、という問題系です。ここで中心に据えられるのが、責任の評価は必ずしも「出来事が別様になりえたか」という形でしか成立しないのではない、という見立てです。ストローソンは、いわゆる両立論(決定論と責任の両立)を機械的に「両方とも成り立つ」と言い切る方向ではなく、そもそも責任判断を支える実践的な態度がどのように組織されているかを、注意深く記述することによって、その議論の前提を組み替えようとします。
まず、決定論と責任の対立は、しばしば「もしすべてが原因によって決まっているのなら、私たちは本当に別様に振る舞えたのか」という問いに圧縮されます。別様にできた(できたはずだ)なら責任が言える、できなかったなら責任は崩れる、といった直観が、現代的な言い方では「反事実的条件」(もし状況が少し違っていたなら別の行為が可能だったはずだ)に結びつきやすいわけです。ストローソンが問題にするのは、責任を成立させるものとして、こうした反事実的な条件ばかりを前面に出してしまう見方です。彼の関心は、責任が成立する仕方を“理論的な条件のリスト”として確定することよりも、私たちが実際に責任を帰属するときに採用している概念的枠組みが、どこまで「反事実」に依存しているかを問い直すことにあります。
彼が見出す重要なポイントの一つは、「私たちが責任を判断するとき、評価の焦点は単なる因果の連鎖ではなく、理解可能な合理性の所在に向けられる」ということです。たとえば、怒ったり許したりするのは、単にその人の行為が特定の原因から生じたという事実に反応しているからではありません。むしろ、私たちは相手の行為を、理由に基づくものとして捉えようとします。相手が何を知っていたのか、何を意図していたのか、どんな判断のもとで行為したのか、そしてそれがどの程度に理解可能な仕方で生じたのか。このような観点がそろうとき、私たちは「責めるに値する」「責めることが適切だ」という方向へ、態度を調整します。ここで重要なのは、責任判断の出発点が、未来に向けた技術的予測ではなく、過去の行為を理解し評価する実践である点です。つまり、責任は“因果の説明”だけではなく、“態度の調整”として機能しているのです。
この視点は、反事実の議論に対して、微妙でしかし決定的なずれを生みます。決定論にせよ、あるいは因果一般にせよ、「同一条件なら同一結果」といった原理を採用するなら、形式的には反事実が成り立ちにくく見えるかもしれません。なぜなら、世界の全体が固定されているなら、ある行為が別様であった可能性を、同じ条件の範囲で語れないからです。ところがストローソンは、責任判断の中心にあるのが、そのような“同一条件での別結果”の可否ではないと主張します。私たちは、一定の教育的・社会的関心のもとで、ある局面を切り出し、「この人はそのときこう判断できたはずだ」「この状況なら通常こうしたはずだ」といった形で、規範的に問題を組み替えます。その際、必要とされるのは「世界全体を別の可能世界に置き換えたときの整合性」ではなく、「私たちが理解可能な範囲で、その人が合理的主体として扱えるかどうか」という点にあります。反事実が“条件の同一性”に過剰に縛られると、責任という実践の実際の焦点がぼやけてしまう、というのが彼の問題意識です。
この結果として、ストローソンは責任の理解を、単なる形而上学的な可能性(本当は別様になりえたか)から、より人間学的・社会的な側面へ移すことになります。責任帰属は、相手を理由に応答できる存在として扱うことと深く結びついています。つまり、責任を問うという態度は、相手の心的状態・推論・学習・信念や欲求の働きが、一定の仕方で把握可能だという前提に支えられています。たとえば、疾患や強制、無知、錯誤などによって、その人の行為が理解可能な合理性の領域から外れるなら、私たちはしばしば非難を控え、代わりに治療、保護、説明、配慮といった別の実践へ切り替えます。ここで見られるのは「責任が成立する・しない」の単純な二分法ではなく、理解可能性と配慮可能性に応じて、態度の体系が階層的に切り替わっていく構造です。ストローソンの議論は、その切り替えの地図を記述することで、決定論論争の土俵そのものを組み替えます。
さらに彼の議論が面白いのは、こうした責任の考え方が、単なる心理的な気分や習慣に還元されないという点です。責めることや許すことは、社会の秩序を維持するための便利な制度である以前に、相互理解のための実践です。人が人として扱われるのは、理由に基づく存在として相手を捉え、その行為を意味あるものとして位置づけられるからです。非難は、しばしば否定的な感情を伴いますが、その感情が表すのは「予測できるから不快だ」といった種類ではありません。むしろ、「この人の行為は、われわれが期待し正当化できる合理性の基準から見て問題だ」という規範的判断が含まれています。したがって、反事実的条件の成否を形式論理のように扱うより、責任実践の規範的意味に目を向けるほうが、ストローソンにとっては本質に近いのです。
ここで注意すべきは、ストローソンが反事実を全面否定しているわけではない点です。むしろ、反事実が担う役割を限定しようとします。反事実は、一定の規準に基づいて「もし教育や情報が十分だったならどう判断しただろうか」「もし錯誤がなかったならどう選んだだろうか」という形で、理解と改善の方向を照らすことがあります。しかしそれは、世界の“全体的な不可能性”を突破するための形而上学的鍵というより、責任実践の中で生じる推論の一部として機能する、という扱いになります。責任をめぐる問いは、究極的には「その人を理由に応答できる主体としてこれからどう扱うべきか」という実践的問題に回収される。その回収の仕方が、ストローソンの議論の特徴です。
このように見てくると、ストローソンが提示するテーマは、決定論論争というよりは「責任概念の役割とは何か」という概念分析に近づきます。反事実的な“可能性”をめぐる形而上学的な勝ち負けを、議論の中心に置くのではなく、責任が社会的・認識論的・規範的に果たす機能を再配置する。しかもその機能は、相手を理解すること、誤りを修正すること、改善の余地を認めること、そして一定の場合には保護や治療へと切り替えることと結びついている。だからストローソンの議論は、決定論が正しいかどうか以前に、「なぜ私たちはそもそも責任を問うのか」という問いを浮かび上がらせます。責任とは、世界の因果の完全な記述を求めることではなく、相互理解を支える規範的な態度の運用なのだ、という認識が得られるからです。
最後に、このテーマが現代的にどれほど刺激的かを一言で言うなら、責任をめぐる議論がしばしば「自由意志の形而上学」へ直行しがちな中で、ストローソンは「責める/許す/支援する」という人間関係の実践そのものから出発しようとするからです。反事実や決定論をめぐる論争は、確かに理論として魅力がありますが、その魅力が責任という概念の生きた用法を見失わせる危険もあります。ストローソンの仕事は、その危険を回避しながら、しかし“たんなる言語ゲーム”にも退化しない形で、責任の概念が担う深い役割を照らし出してくれます。反事実的な条件で責任を解剖するのではなく、責任を通じて私たちが相手をどう理解し、どのように態度を調整しているのか——その地平へ誘うことこそ、彼の議論の最大の魅力だと言えるでしょう。